12.12
Mon
没ネーム、今回は丸ごとではなく一部没になった場面を切れ切れにご紹介します。
最初の頃は書きながら探っていった感が強いのでなくなってる場面だらけです。
没というのは編集さんに言われて…だけではなく自分の意思で削除変更することも多いです。

何話にあった場面かわかりますか?
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↑今では考えられない軽さですね…

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↑書きながら探った一例、詩を扱った漫画でこういう抽象的なモノローグは入れるべきでないとか、書いてみて掴んでいったんです
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↑前記事で書きましたとおりネーム絵はどんどんよれよれになっていっているのでこれもだいぶよれよれですが
ここで最新話のよれよれぶりをごらんください
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机と溶け合うミヨシくん…

12.10
Sat
だいぶ前の没ネームを発見したので久々に一部をご紹介します。

月吠は連載開始前の準備期間が一年ほどあって、その間に資料収集やネームの書き溜めをしていました
そのときに仮に6話として作っていたのがチエコさん&アッコさんの、17話〜18話のプロトタイプのような話でした。
なおそのころまだ1話は現1-2話が統合された状態だったので、話数が繰り上がっていて
5話で空襲の話でした。その直後に壊れたチエコロボ修理の流れだったわけです。
いろんな理由で一旦ボツになり、でもチエコアッコの話はいつかやりたいと宿題として残っていて、
17-18話で大幅に作り変えて登板となったのでした。

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白さんがコタロー宅〜アッコさんと会う流れは変わっていませんが
もちろんいろいろ起こる前の白さんなので二人と会う意味があんまりなくて
それも16話の後にまわしてよかった点です。
とびとびページですが二人の独白に終始してる単調な展開であることがお察しいただけるかも。
没になるのはその時は納得いかないことが多いんですが(その時の自分は良いと思って書いてるわけですから)、後から見返すと没になる理由がわかるんですよねえ

なお月吠はこれまでと絵柄を変えようと思っていたので慣らしの意味もあり、
連載開始前はネームをわりと細かくかいていますが(このころのネームは白さんの顔がなんか大人しいというかオラつき感が足りないですね)
最近は時間に追われてこんな有様です。
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11.24
Thu
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前回の記事で知りたいと書いておりました昭和十二年の『愛国行進曲』選定に際して
佐佐木信綱と北原白秋が補作のやり方をめぐって対立し、生涯和解しなかった
とされている件についての続報です。

歌人・堂園昌彦氏から、信綱の『明治大正昭和の人々』(新樹社、1961)に以下の記述があるとの
情報を提供していただきました。

**************************

 北原白秋君とは、森さんの会〈引用者注:森鴎外〉で初めて知るやうになつて、
明治四十一年の心の花三号に「若き喇叭」、七号、八号に「断章」 、九号に
「瞳の色十二篇」などをも寄稿もせられた。
 それからかなりの年月がたつて、下村海南君が朝日の副社長であつたころのある夕べ、
新橋の某亭に若い歌人を招かれた。「部屋の隅に色紙がおいてあるから、歌でも絵でも
肖像でも好きなものをかいてほしい」とのことでそれぞれ筆をとつた。やがて、北原君が
「見給へ」 というて示されたのは、白秋と署名された竹柏園主人〈引用者注:信綱〉の像であつた。
下村君にたのんで自分がもらはうかというてをると、傍から斎藤(茂吉)君が、「一寸見せ給へ」
というて前において、「春の日のてりかゞやける国原の大河の水は心ゆたけし」といふ歌を
すらすらとかいて、「茂吉」 と署名してくれたので、よろこんでよい家づととした。
(昭和三十二年二月の「心の花七百号」の巻頭に写真が掲げてある。)
 又十年余の歳月がたつた。山本君〈引用者注:山本実彦〉の「新万葉集」については同君の條に
述べてあるが、選を頼まれた人々にとつては盛夏である上に寄稿の数が多いので、實に一通り
ならぬ苦心であつたが、誰もが、わが道のためにと身もたな知らにつとめた。何回か数人づつの
集まりがあつた。
星が岡茶寮に会した夜、終りに近づいた頃、自分が北原君に対して何か冗談をいつたとみえ、
低い声を出してののしられたやうである。自分は自分の言うたことを現に記憶してをらぬ
ほどの事であつたが、翌月の君の雑誌の、君の文中に極めて激烈な言葉で自分のことがかいてある。
驚いて、誤解であると書状をおくつたが、返事がなかつた。しばしたつて、君は眼があしく
入院と聞いて駿河台の病院にいつたが、たしか夫人が出て来られて、面会謝絶であるからと
いはれた。その後、しばらくして隔世の人となられた。
 自分も、もとより他に対して喜怒はもつてをる。しかし、まのあたりその情をもらしたやうな
ことは、幼い時代に一回あつたが、それ以外には全く記憶せぬ。星が岡のは今も遺憾に思うてをる。

ーーーー佐佐木信綱『明治大正昭和の人々』(新樹社、1961)


**************************

これは昭和三十六年、信綱が「数え歳九十」となった頃の、人生で出会った多くの人々についての
回顧録です。

以上の情報を受けて白秋全集を「新万葉集選歌前後」「雑誌の記事」中心に調べ直すと、
以下の記事を見つけました。

**************************

「多磨雑纂」 【昭和十二年十一月十日 5巻5号】『白秋全集37』

長岡行

十月十五日、私は改造社の大橋松平君と伊豆長岡温泉に赴いた。
新万葉集選歌の完結が逼迫したからである。眼疾の保養をも期したが、
昼夜兼行の仕事のため疲労を愈〻加ふるのみであつた。その間に、
二十七日夜十二時、内閣情報部計画の愛国行進曲の審査委員会に
出席のため帰京し、翌日夜九時星ヶ丘茶寮のその会が了ると、
また東京駅へ駈けつけた。長岡へは、大橋君の外に多磨編輯のため
中村正爾君を伴つた。また三泊して、三十一日帰京、その日の
愛国行進曲第二回審査会に顔を出した。その後、新万葉集の選歌も
責任を果し、懵乎として夢を追ふが如き状態にある。

(中略)

 改造社の新万葉集選歌並に内閣情報部の愛国行進曲審査はいづれも
国家的事業であり、私も選者の一人として光栄を感ずる者であるが、
之に当つて 、私は毫も責任を回避したとも思はぬし、疎懶であつたとも思はぬ。
如何なる犠牲を払つても為すべきだけのことは為し遂げた。それでよい。
今の心地は極めて清明である。
 歌壇の長老なにがしの博士の、何を含むところあるか、この私に対して加へられた
公の席上二回に亘つての陰暗にして卑賤、柔軟にして苛烈の態度に対して、今は敢て
云はぬことにする。白秋は皇軍のごとく陰忍すべきは陰忍し、爆発すべき時に当つては
大爆撃する。眼疾などは飛んで了ふ。


阿諛と貪婪

阿諛と貪婪と、吉良上野介のごとき真綿で首のいやみつらみは、少くとも白秋は大嫌ひだ。
事に当つては金も名誉も命も要るものか、多磨の諸氏之を心得よ。


**************************

こちらの記事を完全に見落としていました。
どうも、この件について調べていた時に白秋全集37が別の部屋にあったようで
まるっと見落としていたようです…お恥ずかしいかぎりです。

両者の記述をつきあわせてみます。
『新万葉集』の選歌と『愛国行進曲』の審査は同時期に行われていて、
揉め事は信綱によれば『新万葉集』 の際、白秋はどちらかの席上としています。

一部前回の記事と重複しますが白秋の記録によれば
**************************
昭和十二年

三月三日
星が丘茶寮に於ける改造社招待の新万葉集審査会に出席す。

五月十九日
東京会館にて佐佐木信綱氏の文化勲章拝受祝賀会に出席。

六月十四日
晩翠軒に於ける新万葉集審査会に出席後多磨六月歌会に廻る。

十月十五日
『新万葉集』 選歌の完結 迫りたる為、改造社の大橋松平君と伊豆長岡温泉に向ふ。
この夜多磨十月歌会開かるも出席し得ず。

十月二十八日
午後二時より星ヶ岡茶寮に於ける愛国行進曲の審査委員会に出席。
会果てて九時又東京駅より伊豆に向ふ。
同行、大橋松平・中村正爾君。

十一月十日
駿河台、杏雲堂病院に入院す。

ーーー北原白秋『全貌 第六輯』消息片鱗

**************************

**************************

白秋の記録はリアルタイム、信綱の『明治大正昭和の人々』は90歳近くになって
からの回想なので、『新万葉集』の席でというのは記憶違いで
『愛国行進曲』の時なんじゃないかと思います。
ただし、白秋の記録外で新万葉集の会議があった可能性はある
(げんに、「長岡行」で記載のある三十一日の愛国行進曲第二回審査会が
消息片鱗には記載されていません)ので断言はできません。

『明治大正昭和の人々』の通りだと
この後信綱が手紙を出すが返事が来ず、入院先に行ったが会えず、
しばらくして白秋が亡くなったとなるのですが

しかし以前の記事の通り

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昭和十四年の五月三十日、六月八日
「銃後家庭強化の歌」審査会
九月六日、九月十三日
「明治神宮体育大会の歌」審査会

**************************

調べ直すと、さらにその後
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昭和十五年
一月十一日
読売新聞社募集「紀元二千六百年讃歌」第一部・第二部審査員会に出席。
千葉胤明、武島又次郎、佐佐木信綱、斎藤茂吉の諸氏と同座、予選並びに
代表歌選定その他に関し打合はせをなす。会場同社貴賓室。

二月二日
読売新聞社募集「紀元二千六百年讃歌」審査会を日本橋浜のやに於て開く。
第一部第二部審査員諸氏と同座、代表歌を選定す。

四月十四日
午後一時より紀元二千六百年奉祝記念講演会に移る。
佐佐木信綱・前田夕暮・折口信夫氏等と共に講演す。

六月十五日
午前十時より丸の内中央亭に於て東京市聯合青年団募集の団歌審査会。
佐佐木信綱、堀内敬三氏等と同席す。薮田同伴。

十二月十五日
午後五時よりレストラン・ツクバに於て佐佐木信綱・尾上柴舟・
窪田空穂の諸氏発企にて旧歌人協会理事を犒ふ会の催しあり出席。

「多磨雑纂」より『白秋全集37』


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で両者とも出席していて、ただここまでは主に会議の席ですし
個人的な会話はなかったのかもと思えたのですが

昭和十六年元旦から白秋は家族と鎌倉に赴き
三日から鎌倉海浜ホテルで過ごした中で

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海浜ホテルではゆくりなく佐佐木信綱博士と遇ひ、二三日を
いつしよに過ごしたが、その間に歌壇の新団体結成の相談や
博士の意嚮を窪田空穂氏へ伝へる役目をも引受けることになつた。
( 「近状について」『多磨雑纂』12巻2号)


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という、結構しっかり話してたんじゃないですかーとびっくりする記述がありました。
信綱の中では白秋死後も感情的なしこりが消えなかったので
こういった出来事には触れず、遺憾に思っているとだけ書いたのでしょうか。

以上からいえることは、

・『新万葉集』選歌、『愛国行進曲』審査どちらかの席上( おそらく後者)で
 信綱が冗談を言い、それが白秋の逆鱗に触れる
・白秋が雑誌『多磨』で怒りを表明、信綱が手紙を出すも返事はなし
・その後各種会議の席で何度か顔を合わせている
・四年後には偶然会ったホテルで親密な会話をしている


というのが信綱と白秋の喧嘩の実情で、
「愛国行進曲補作のやり方をめぐって対立し生涯和解しなかった」
というのは話に尾ひれがついて伝わっていった結果なのではないでしょうか。
表面上和解していても信綱の心の内では遺恨が残ったことも
「生涯和解しなかった」につながっているのかもしれません。

喧嘩の原因が補作についてであったなら
どういう主張をしあったのか知りたいなあと思っていましたが、
どうも冗談が通じなかった類の感情的な諍いのようなので
自分の中では一件落着となりました。
話が変化していった過程は知りたい気持ちはありますが、本人達の記述を第一に信じようと思います。

堂園先生、貴重な情報をありがとうございました!
堂園先生はブログ「短歌のピーナツ」でも「月に吠えらんねえ」に触れてくださっています。
5巻の「純正詩論」の回がとてもわかりやすくなる、大変面白い記事です、ぜひご一読を。

短歌のピーナツ 日本最初の「詩」は軍歌だった!?  堂園昌彦


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以下は白秋、信綱の性格を絡めてもう少し補足を。

白秋全集を読んでいると、白秋先生はあちこちで爆発を起こしているので
信綱の件に関してはおとなしい方の記述…と感じてしまいます。

白秋自身自分の人付き合いについてこんなことを書いています。

**************************
親疎

私には嫌ひな人といふものが一人もない。無論またそれ以上の感情を以て敵として
憎まうとする人の一人も無い。これは謂ふところの善人とか、お人よしの鈍感といふ
ものではなからう。僕は別に善人とも思つてゐないのだ。ただ育ちや、承け継いだ
一つの性格からでも来てゐるのかと思つてゐる。どういふ人でも、よくよく親しい
目で観れば好きなところや美しいところは必ずあるのであつて、嫌つたり憎んだり
する以上に、私には、その方が先にうれしく感じられるのである。これは言葉に文を
つけていふのでも、悟りめかしていふのでない。本来私はさうなのだ。

私はよく憤る。撥乱反正の気魄はいつも燃え立つてゐる。不正や不純や、蕪雑や懶怠や、
虚偽、陋劣、怯懦、奸策、残虐といふ諸々の罪悪に対しては怒るべくして怒る。
しかし当の相手に対して、いつまでも根に持つてどうといふことはない。
為まいとして抑制するのでなく、さうならないのである。却つて同じ強さの度合で
愛情を感ずることが常だ。之も別に、哲人のやうに修養してかうあるのではないやうな
気がする。生れつきなのであらう。人なつこいのだ。
(後略)
ーーー多磨雑藁(六)『白秋全集 36』

**************************

人懐こい反面かなりプライドが高く怒りっぽく、自分が貶められたと感じると
公然と強烈な怒りをぶつけ謝られればさらっと水に流す
(この時も信綱からの手紙が来た時点でこの話は終わり、となっていたのでは)
のが日常茶飯事だった白秋に対し、
人前で感情を爆発させない、いたずらに諍いを起こすことのない
穏やかな性格の信綱にとっては自分に怒りを向けられることが驚きだし
謝罪しても返事もなく水に流されてしまい、穏やかに過ごしたいので
追及はしないものの心中のわだかまりは解けない。
身の回りの人間関係でもありそうなことではないでしょうか。
またその、爆発した文が怒ってるのに美文で圧倒してくる感じなものだから
書かれる側はたまったものじゃないだろうなあ〜などとも思ってしまいます。

ですから、白秋にとっては和解…というか水に流した揉め事だけれど
信綱にとっては「生涯和解しなかった」といえるんじゃないかと思います。

信綱との衝突との翌年、以前ご紹介した詩人懇話会に関する犀星との衝突も起きています。

これについても「多磨雑纂」に、その時紹介していない記事がありました。
犀星の謝罪?後の記事です。(8巻4号にも記述がありますが省略します)
**************************
「多磨雑纂」 【昭和十四年六月一日 8巻6号】

(前略)
また詩人懇話会に関しては、さきに詩人賞禍ありの問題を提起した私として
感慨の多大なものがある。幸に私の憂ひたところが達せられ、詩人懇話会も
矢張りそのもとの名義に還り、その組織も機構され、実務委員の選挙、その他
詩人賞の件に就いても、条理を正した上での議案が決定せられたので、
私としては今はいふところは無い。
「改造」に反駁文を書いた室生犀星君も又更に潔き自戒言を「読売」 に書かれた以上、
詩壇の清明はその興隆の素地を作るに、ちがひない。又私と室生君との友情はこの事
あつて益々緊密の度を深めるであらう。
(後略)

**************************

なお、これより前、昭和五年にも
「私の立場ー 犀星君にー」(『白秋全集 35』)で詩人協会主催の新体詩祭をめぐって
犀星の書いた「詩人老ゆる」 に対して反論を述べています。
**************************
(前略)
『白秋氏のごときは一片の祝電さへ打つて来なかつた。白秋氏は旅行中であつたが、
留守居は何を留守してゐたか。』
此の非礼な一言は取消すべきである。若し此の白秋を栄誉の会合ならば出席し
悲境にある先輩など振り向きもせぬ卑俗な輩と、犀星が見るならばあまりに
人格侮蔑である。私はさういふ人間では無い。
(後略)

**************************

信綱よりも親疎の差があるとはいえ、犀星もこうした白秋の態度にはわだかまりが残っていて
それが犀星の白秋追悼詩の微妙な表現に繋がっているのかなあと思います。
以前も載せましたがもう一度。

*************************

  白秋先生

あなたを単純と見たらいいか
のんびりした人に見たらいいか
あなたは人に親しみ
対手がどこまで蹤いて来ても
それをあまり問題にしてはゐない
どこまで行つても底が見えて来ない
底を見せない
底には行きにくい
或程度までゆくと戸がしまつてゐる
そこにあなたはゐた。

あなたのまはりは
あなたを奉つた人ばかりだつた
あれはいけない
あれはあなたを軽く見せる
あれはいけない
そんなふうに私はあなたを考へてゐた。
あなたは派手でおしやれで
奉られることを露骨に好いてゐた
平気で少々をかしいくらゐ
まはりを畏まらせるところにあなたはゐた
僕や萩原が遠くにゐたのもそんなせゐです
しかしそれすら
あなたをこはすことも
軽くさせることもなかつた
あれでよかつたのだ
先生々々でたくさんだつた
それに間違ひはなく愉快だつたら
それでよかつたのだ
亡くなられたからかういへる
かう云へるやうになつたことは嬉しい。
何でもまはりを賑やかにしてゐて
それで漸とほつとしてゐたところで
あなたは不機嫌になり顔がゆがみ
そして苦々しい思ひをされてゐたのだらう。

あなたは生きられるだけ生きられた
死へ逆ねぢを食はせ
あかんべえをされようとし
五年もうしろ足で死の扉をおさへて居られた
そこに本統のあなたがゐる
奥さんがゐられなかつたら五年の半分
二年くらゐ生きられたであらう
萩原はみとりする妻もなく死に
佐藤はよその家で息を引き取つた
二人の死を悠くり見てからの
あなたの朝夕のねざめはよく分ります
二十七の時にあつてからけふ迄三十年
三十年のあひだにどれだけも打合話もしない
あと十年生きてゐても同じでせう。
そのおなじ話をする間もない三十年といふ奴が
そこだけ廣間になつてのこつてゐるのが
どこをみるよりもさびしく
歩き廻ればずたずたになつて私の半生が
ボロ屑になつて眼に見えて来るのです。
しかしあなたには少しのきづもなく。



「白秋先生」室生犀星『餘花』昭南書房、1943
*************************

朔太郎と白秋の間では以前ご紹介したようにさんをつけろよ事件がありましたが
その時すぐ謝っているし、他では特に衝突していないようです。
またこれは三好達治による記述で、朔太郎自身は白秋に関して否定的な記述は残していないんですよね。
それは朔太郎が先に亡くなったというのもあるでしょうし、
「北原君」と書いただけで怒られたのでその後は気をつけて衝突回避していたのかも…などとも想像します。
09.18
Sun
すっかりご無沙汰してしまいました
月吠ノートです。

★お知らせ★

福岡県の野田宇太郎文学資料館さんの企画展「蒲原有明―近代詩の先駆者―」にて
有明先生と朔くん白さんの描き下ろし漫画を展示していただいています。
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11月29日までの開催です。お近くの方、ぜひお越しください。
野田宇太郎文学資料館企画展「蒲原有明―近代詩の先駆者―」ページ

西日本新聞紹介記事
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/f_chikugo/article/271284

★お知らせ2★

月吠最新6巻が10月21日に発売予定です!
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どうぞよろしくお願いします!
6巻には32話までとキョシの番外編が収録されます。
ちなみにアフタヌーン本誌は9月24日発売号で33話掲載。単行本が連載に追いつきかけています。
10月発売のアフタヌーン12月号(34話掲載予定)では先頃行われた人気投票の結果発表がありますので、単行本派の方も
追いつきやすいこの機会にぜひアフタヌーン連載の方もよろしくお願いします

人気投票、今現在まだ結果は出ておりませんが、どうなっているか私も楽しみです。
投票していただいた皆様、ありがとうございました!

★お知らせ3★
ずいぶん前のことですが
『ユリイカ』2016年8月号 特集「あたらしい短歌、ここにあります」
に清家のインタビューが掲載されています。
こちらもよろしくお願いしますー


さて久々すぎてノートの書き方を忘れてしまいましたが…
せっかくなので連載とは関係ないけれど気になっていることを書き留めておきます。

『ユリイカ』のインタビューでも触れていますが、
月吠では資料として、出典を自分で確認できないものは基本的に採用しない方針があります。
文学者のエピソードにはこの、出どころがわからない話が結構あるのです。
漫画本編と無関係とわかっていても、明確な出典が見当たらないままに事実として広く
語られている出来事には、一体どこから出た話だろう?と気になって調べはじめてしまいます。

それでひとつ、出典が見つからずにいて、ご存知の方いらっしゃいましたら是非ご教示願いたいのが、
『愛国行進曲』の選定補作をめぐって佐佐木信綱と北原白秋が大げんかをし生涯口もきかなくなったという話です。
いくつか読んだ本に記載があったのですが(Wikipediaにもありますね)、
ほとんどが出典が記されておらず、数少ない出典として明記されている本も
三國一朗『戦中用語集』(岩波書店、1985)で、そこでの記述は
「愛国行進曲は白秋と信綱が激論をたたかわせてほとんど原型をとどめなかったという」のみで、「という」の出典は書いていません。

ちなみに白秋の日記的な記述、『全貌 第六輯』消息片鱗(『白秋全集 38』)では
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(昭和十二年)

五月十九日
東京会館にて佐佐木信綱氏の文化勲章拝受祝賀会に出席。

十月二十八日
午後二時より星ヶ岡茶寮に於ける愛国行進曲の審査委員会に出席。
会果てて九時又東京駅より伊豆に向ふ。
同行、大橋松平・中村正爾君。
***************************

一方信綱は『作歌八十二年』にて
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昭和十二年
十一月 内閣情報部の愛国行進曲歌詞審査委員を嘱され、尽瘁した。
なお、予選者として竹柏会より小花清泉、伊藤嘉夫君が参加せられた。
+++++++++++++++++++++++++++

と、両者特に何も触れていません。
ただし、信綱は他の審査委員の時は「嘱せられた。」としか書いておらず、
わざわざ「尽瘁した」と書いているということはやはり何かあったのかもしれません。

その後の白秋の「消息」をたどると、
***************************
(昭和十四年)
五月三十日
午前十時より愛国婦人会本部に於て、「銃後家庭教化の歌」審査会。
藪田同伴出席す。他に列席者は西条八十・佐佐木信綱・小野賢一郎・山田耕筰の諸氏、
並に愛国婦人会事務総長小原新三以下数氏。入選及び佳作を決定後、一等当選作の
補訂をなす。
夕刻より、芝紅葉館に於けるビクターの祝宴に臨む。

六月八日
午前十一時、九段軍人会館に於て「銃後家庭教化の歌」第二回審査会、藪田同伴出席す。
他に佐佐木・西条・山田・柴野中佐の諸氏。愛婦側水野副会長以下各理事、小原事務総長以下
各関係者列席。先に決定した一等当選歌は山田氏に作曲を依嘱、本日補訂の二等作品は
一般から広く作曲を募集することとなつた。
夕刻より、丸ノ内日本工業倶楽部に於ける日本文化協会主催「児童読物改善懇談会」に出席す。

九月六日
午前十一時、一ツ橋学士会館に於て、厚生省募集「明治神宮体育大会の歌」審査会。
藪田同伴出席す。他に佐佐木信綱氏、山田耕筰氏、明治神宮宮司有馬良橘大将、体力局長
佐々木芳遠氏ほか関係事務官列席。当選決定を次回に保留す。帰途赤坂の稀音家浄観氏邸に廻る。
日本文化連盟依嘱の長唄「元寇」初稿出来につき、作曲に関する打合はせをなす。

九月十三日
午前十一時、一ツ橋学士会館に於て、厚生省募集「明治神宮体育大会の歌」第二回審査会。
藪田同伴出席す。当選作補訂、佳作三篇決定す。
なほ右の当選作は山田耕筰氏が作曲する。

***************************

と、少なくとも二曲の審査会で顔を合わせており、
特に「明治神宮体育大会の歌」審査では歌詞担当としては白秋と信綱しかいないので
補訂に際して口をきかないということはなかったんじゃないかと思われます。
ただ『愛国行進曲』からは一年半経過しているので、何かあっても時間が解決したのかもしれませんが。

「同伴出席す」と書かれている藪田義雄氏は白秋門下の詩人で当時秘書でもあり、『評伝 北原白秋』(玉川大学出版部、1973)
では白秋の国民歌謡審査についても書かれています。「愛国行進曲」の翌年、昭和13年の「愛馬進軍歌」の審査
(審査員は土井晩翠、白秋、斎藤茂吉、西条八十、JOAK局長片岡直道)をめぐって土井晩翠の推す一等作品が
漢語調で今時流行らないんじゃないかと陸軍の担当主任(硫黄島の栗林中将の大佐時代)らと話し合うといった顛末が書かれています。
が、「愛国行進曲」についての記述はありません。

そういうわけで、何かありそうだけど決定的な記載を掴めないまま
ひとまず2巻のおまけページで白さんが「仲良くもないけど悪くもない」と言っているのでした。
ご存知の方いらっしゃいましたら、ご教示いただけますと幸いです!
本当に本編とは全然無関係なんですが、一回気になるとどうも気になってしまいます…
喧嘩の内実というより、歌詞をめぐってどちらがどんな主張をしたのかなあと。
当時から語彙が難解すぎると批判も多かった歌詞だけに。

なおこれで見てもわかるとおり、戦争詩歌はプロ?の詩歌人が作っただけではなく、当時盛んに一般公募が行われて、
何万件もの応募があり、著名な詩人と一般詩人の作品とを合わせたアンソロジー詩集も発行されていました。
著名な近代詩人達は自分で作るよりもむしろ応募作の選定補訂、投稿詩の監修面で関わっていたことが多いです。
愛国報国精神が広汎な創作エネルギーに繋がっていたわけです。
04.18
Mon

九州熊本地方の地震により被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。
一日も早い被災地の復旧、復興をお祈り申し上げます。








以下、通常の記事となっております。あわせての更新となってしまいますことをお許しください。

すっかりノートの方ご無沙汰してしまいました。
なんと今年二回目の更新です。
Twitterの絵もそろそろまとめないといけませんね…

お知らせです。

■月に吠えらんねえ最新5巻は5月23日発売予定です!
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■『中原中也記念館館報』21号にチューヤくんの漫画「夕焼めぐり」を寄稿させていただきました。
(「館報」→一番下の第21号でweb版を見られます)。館報自体は中原中也記念館にて配布中です!

http://www.chuyakan.jp/

送料負担でお取り寄せも可能なようです。(おひとり一冊限り)

■すっかりお待たせしてしまったLINEスタンプは近日リリース予定です。

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そして、『中原中也記念館館報』寄稿漫画についてちょっとこぼれ話です。

まず今回のテーマになっている「夏の夜の博覧会はかなしからずや」、作中では全文引用はしていないので、こちらで。
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夏の夜の博覧会は、哀しからずや
雨ちよと降りて、やがてもあがりぬ
夏の夜の、博覧会は、哀しからずや

女房買物をなす間、かなしからずや
象の前に僕と坊やとはゐぬ、
二人蹲(しやが)んでゐぬ、かなしからずや、やがて女房きぬ

三人博覧会を出でぬかなしからずや
不忍ノ池の前に立ちぬ、坊や眺めてありぬ

そは坊やの見し、水の中にて最も大なるものなりき、かなしからずや、
髪毛風に吹かれつ
見てありぬ、見てありぬ、かなしからずや
それより手を引きて歩きて
広小路に出でぬ、かなしからずや

広小路にて玩具を買ひぬ、兎の玩具かなしからずや



その日博覧会に入りしばかりの刻(とき)は
なほ明るく、昼の明(あかり)ありぬ、

われら三人(みたり)飛行機にのりぬ
例の廻旋する飛行機にのりぬ

飛行機の夕空にめぐれば、
四囲の燈光また夕空にめぐりぬ

夕空は、紺青(こんじゃう)の色なりき
燈光は、貝釦(かひボタン)の色なりき

その時よ、坊や見てありぬ
その時よ、めぐる釦を
その時よ、坊やみてありぬ
その時よ、紺青の空!

ーーーーーーーーーー「夏の夜の博覧会はかなしからずや」『中原中也全集 第2巻』
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中也の長男文也は昭和九年十月に生まれ、昭和十一年十一月に亡くなってしまいます。
文也の死は中也にとって大きな精神的打撃となり、いくつかの詩を残しています。
『在りし日の歌』は「亡き児文也の霊に捧ぐ」と銘打たれています。
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また来ん春と人は云ふ
しかし私は辛いのだ
春が来たつて何になろ
あの子が返つて来るぢやない

おもへば今年の五月には
おまへを抱いて動物園
象を見せても猫(にやあ)といひ
鳥を見せても猫(にやあ)だつた

最後に見せた鹿だけは
角によつぽど惹かれてか
何とも云はず 眺めてた

ほんにおまへもあの時は
此の世の光のたゞ中に
立つて眺めてゐたつけが……

ーーーーーーーーーーーー「また来ん春……」中原中也『在りし日の歌』
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コメントで触れている「文也の一生」は中也の日記の中で書かれているものです。
最初と最後の部分のみ抜粋します。
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昭和九年(一九三四)八月 春よりの孝子の眼病の大体癒つたによつて帰省。九月末小生一人上京。
文也九月中に生れる予定なりしかば、待つてゐたりしも生れぬので小生一人上京。
十月十八日生れたりとの電報をうく。八白先勝みづのえといふ日なりき。その午後一時山口市後河原田村病院
(院長田村旨達氏の手によりて)にて生る。生れてより全国天気一か月余もつゞく。

   (中略)

春暖き日坊やと二人で小沢を番衆会館アパートに訪ね、金魚を買ってやる。
同じ頃動物園にゆき、入園した時森にとんできた烏を坊や「ニヤーニヤー」と呼ぶ。
大きい象はなんとも分らぬらしく子供の象をみて「ニヤーニヤー」といふ。
豹をみても鶴をみても「ニヤーニヤー」なり。やはりその頃昭和館にて猛獣狩をみす。一心にみる。
六月頃四谷キネマに夕より敦夫君と坊やをつれてゆく。ねむさうなればおせんべいをたべさせながらみる。
七月敦夫君他へ下宿す。八月頃靴を買ひに坊やと二人で新宿を歩く。春頃親子三人にて夜店をみしこともありき。
八月初め神楽坂に三人にてゆく。七月末日万国博覧会にゆきサーカスをみる。
飛行機にのる。坊や喜びぬ。帰途不忍池を貫く路を通る。上野の夜店をみる。

ーーーーーーーーーーーー「文也の一生」『中原中也全集 第2巻』
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何年何月こういうことがあった、と綴られてきた文也の一生はこの「上野の夜店をみる。」で途切れています。

さて、こぼれ話というのは「夏の夜の博覧会は悲しからずや」の中の「飛行機」についてです。
中也が文也と飛行機に乗ったのは昭和十一年七月末日、上野公園の国体宣揚博覧会のようです。
この国体宣揚博覧会について、時間の都合であまり詳しく調べられなかったのですが、
他の同時期の博覧会で「飛行塔」が出品されており、
作画にあたって、奈良の生駒山上遊園地に現存している土井万蔵設計の「飛行塔」が昭和四年設置なので
中也親子が乗った「廻旋する飛行機」と大体同じなんじゃないかなあと、そちらを参考にしました。
この土井設計飛行塔は愛宕山など各地で設置されていて、絵葉書に残っていますが、少し形状に違いがあり
唯一現存の生駒山上遊園地のものが中也の乗ったものと全く同型ではないとは思います。
ただ「例の廻旋する飛行機」と、例の、で通じるぐらいですから、既に各所でおなじみの飛行塔なことはほぼ間違いないのではと。

なお、廻旋する飛行機をうたう乗り物は他に縦にクルクル回る「空中遊覧」が昭和十一年の六月ごろ?多摩川園に登場したようです。
スケスケの小さい観覧車みたいなものです。
160418.png



で、間違いないだろうと思いながらもバシっと確定じゃないままに絵にするのはどうも落ち着きません。ファンタジーなのに。
当時の雑誌をかたっぱしから見たらどこかに国体宣揚博覧会の写真があるんじゃないかとも思うんですが
当時は各地で博覧会をたくさんやっていたのと、
昭和11年は4年後の紀元二千六百年合わせで万国博覧会をやろう!という計画が持ち上がった時期で、
博覧会というとその記事ばかりが出てきてちょっと調べただけでは行き当たらず…
いつか落ち着いたら個人的に調べます。といいますか先行研究がありましたら教えていただきたいです!
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