06.18
Thu
今日はプチ更新で、
朔太郎氏の未発表ノート(公表を意図しない下書き、メモ)から、お気に入りをご紹介します。

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おひきずり

 ある天気のよい春の朝、一人の見知らぬ男が私を訪ねてきた。
長いじめじめした上衣の裾を床の上にひきずつて、たいそう青ざめた顔をして。
「何といふおひきずりだらう」と私が心に思つた。彼はだまつて、なんのあいさつも
しないで、私の坐つてゐる背後から風のやうに部屋を通りすぎた。
 私はあつけにとられた。みると、じめじめした水が床の上にのこつてゐた。多分、
あの男の裾がひきずつたあとなので、私は恐ろしくなつた。悪熱がからだを這ひまはつた。
私はいきなり戸をあけて、おもてへとび出さうとして立上がつた。しかし、立てなかつた。
腰が椅子にねばりついた。
 しばらくして夢からさめた。私は卓にもたれて居眠りをしてゐたのである。
 夕方になつて、私はあの男がほんたうに、夢でなく私を訪問することを恐れはじめた。
ところが、実際にやつてきた。だれかが戸の外で私をよんでゐる。私は恐ろしさにふるへ
ながら、も少しで窓からとび出す所だつた。しかし私はうごけなかつた。足が床にこびり
ついた。
 しばらくして夢からさめた。私はまだ卓にもたれてゐた。眼をあけてみると、たそがれ
のうら悲しい光線がカニのやうに室内を這ひまはつてゐた。
 おひきずりはたうとう私から別れてしまつた。夢から夢の中に、ふたたびくることのない
遠い遠い「時」のあなたへ。

ーーー「ノート 五」『萩原朔太郎全集 第十二巻』
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この十二巻の未発表ノート篇は、活字化困難なものは写真で収録されています。
すごくこう、秘密をのぞいてしまっているような申し訳なさも感じつつ、この巻好きなんです…。

全然大したことがないんですが、苦手な方もいらっしゃるかと思い、
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