05.21
Thu
今日は前から書くと言って先延ばしになってしまっていた、犀星と白秋についてです。
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白秋の犀星との関わりは何度か触れてきました

山荘主人記
犀星の追悼詩

犀星の「我が愛する詩人の伝記」と、白秋の
『愛の詩集』序文「愛の詩集のはじめに」
『抒情小曲集』序文
を読むと大体把握できるんじゃないかと思います。

ここでは、昭和14年4月に起きた、両者の激しい諍いについて紹介します。(白秋の亡くなる三年前のこと)

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室生君、僕は今朦朧たる視野の中にあつて、激しくこの両眼を瞬いてゐる。
実に今度の詩人賞の銓衡と、即時決定とは苦々しき限りである。この非法、粗暴、非礼、不道とが
たやすく許されるならば、我が日本の詩壇は下賤醜劣に堕したといふ外はなからう。詩人賞の禍以つて
知るべしである。

抑ここに到るまでの経緯といふものを、君は殆ど無視してゐる。この会の前身、詩歌懇話会なるものは、
昭和十一年の初夏、僕と、松本学氏と偶然の会見に端を発し、砧のこの僕の家で、同氏と少数の詩歌人と
を、紹き合せをしてからその形を整へて来た。そこで、歌の方の人選は、釈迢空、斎藤茂吉両君と鼎座で
苦心し、詩の方の人選は、主として川路柳虹君と、僕とが額をあつめた。而していよいよ文芸懇話会との
平行線上に、我が詩歌懇話会を成立せしめたのである。
(中略)
然るに、惜しい事には一方芸術院の設立があり、松本氏の意向がこれを機とし文芸懇話会の解消となつた。
従つて僕等の詩歌懇話会の解消も亦止むなき形勢となつた。ついては別れるに際して、予め契約してあつた
如く、その提供された賞金弐千円は、これを収受した。
(中略)
君はその間に何を尽されたのであるか、幹事といふではなく適々招宴に一座し、銓衡委員会に一度顔を
出されたものとしか僕に記憶はない。その君がである。

昨年の三月のある夜、この詩歌懇話会はその前後策と、その賞金額の処置に対して合議した。
(中略)
僕は賞金保管に就いても是を遠慮した。その時、君は、突然横合からそれなら自分に銀行預金帳があるから、
預かつて置くと申出た。僕は、幹事の中の長老野口氏に、その保管方を相談しておいたので、是はどうかと
思つた。が、氏がその晩欠席され、僕もその金に手を触れたくなかつた訳で、一座に相談の結果
君にその壱千円を手交した。
(中略)
其の後噂に聞くところに依れば、何としたことか、君ひとりがまるで鬼の首でも取つたやうに行為して、
僕や以前の幹事に何ひとつ相談も無く、切つてまはす自任リーダーの如き振舞を敢てしつつあると云ふ
ことを耳にした。僕は失明の直前にあつて、深く憂ひはしたが、どうする事もならず、それなりになつた。
(中略)
さて其後一回君の世話で、会合が催された由であつた。僕は病中出席不可能のため止むを得ず欠席したが、
その会の経過決議等については誰人からも通告がなかつたので、僕は何も知らず、この一年を過した。
(中略)
先月の廿四五日に突然、僕は詩人賞委員会の名を以つてした詩人賞会合の案内状を受取つた、
その会の宿所は君の所であるので、君の肝入だと云ふ事は解つたが、それならば、またそのやうに
一応の前相談があつてよい筈だと思つた。その葉書は一律に印刷したものであり、前に何等の君の
自筆の添へがきもない事で、さうしたものかと考へられた。
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※※長いので一旦引用を中断します
話の流れとしては、
内務官僚で日本文化連盟の松本学氏の声がかりではじまった詩歌懇話会
詩歌業(俳句は入っていませんでした)の顕彰のための賞を設け、その賞金が用意されていたものの、
方針転換で解散し、歌の方は大日本歌人協会に引き継がれうまく処理したのに対し、
詩の方は、野口米次郎、川路柳虹、佐藤惣之助らが幹事
だったものの、後処理がまとまらないうちに犀星が賞金の保管を申し出、
佐藤惣之助とともに旧幹事に相談無しに事を進め、
白秋の問い合わせの電話は惣之助に出させてその意見を無視した。
そして詩人賞は、病中の白秋はじめ宿老の河井酔茗、元幹事の野口米次郎、川路柳虹
などが欠席する中一晩でさっと決めてしまい、犀星からは報告も無いー
というのが白秋の言い分です。あくまで白秋の言い分です。
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(引用再開)

室生君、僕は今度の君の事を思ふと、全く他事ならず赤面する。
君は殊に僕の系統の中にあつた人であるので尚更穴へも這入りたい気がしてゐる。
僕は河井、野口、両先輩に対しても言辞がない。
(中略)
君に切言するが、君は此際謹慎してその保管の賞金額全部を旧幹事中の一長老
野口米次郎氏に返付なさい。引下つたがよろしい。
室生君僕の肉眼は盲ひかけてゐるが、光るものは光つてゐる。僕をして
何故これ程激しく瞬たかねばならぬか。

ーーーーー「詩人賞禍ありー室生犀星に与ふー」『白秋全集 第36巻』
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この時の詩人賞、ここで議論になっている第一回は佐藤一英『空海頌』が受賞し、
第二回は三好達治『春の岬』『艸千里』が受賞しています(出席はしなかったものの犀星、白秋も審査員)。
上記に名前は出ていないものの、朔太郎も最初の詩歌懇話会発足前の会合、この詩人賞の授賞式である『日本詩の夕』いずれにも参加しています。
第二回の三好達治詩人賞授賞式の時には、朔太郎は登壇し「詩の新興機運について」を講演しています。
なおこの犀星・白秋間の論争については、
和田利夫『昭和文芸院瑣末記』(筑摩書房、1994)がわかりやすいです。

一方犀星側の反論です。白秋が上記を発表した『改造』の翌月、昭和十四年五月号の誌面に載りました。
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北原白秋君、君の「詩人賞禍あり」の一文を先月号本誌で一読した。誰が読んでも
これは北原白秋が憤慨するのが尤もだと思はれる位、正々堂々たる公開状であつた。
君がいかに純潔無垢な正義の人であり僕がいかに横着粗暴な人間であるかを余すところなきまでに
痛罵された。君が書かれた人間としての僕の悪い印象は読んだ人の頭から容易に消え去るものではない。
僕といふナマの人間を知らない人は室生といふやつはこんな奴かなと僕は不名誉な汚名で征伐される、
僕はこの一つのことで不健康な君にお返事をかかなければならぬ不幸を感じる。
(中略)
君の批難される即決も当夜万已むをえざるものがあつて為され、会規にあるがごとく恙なく処理された。
ざつくばらんに云へば君のすいせんされた薮田義雄氏が当選されたら、即決批難も何もなく温和しく
うんさうか、それは宜かつたと仰せられるであらう、それほど君は子弟に手厚い人であり僕によく解る
のである。それがさう行かなかつたことが君のこんどの公開状を書く口火になつたことは君も正直に
肯定されていいと思ふ。それに加へて意外な詩人の授賞が益々君を不愉快にし、それらに僕が力を
藉したやうに謬り考へたために君は真向から全部を否定して攻勢をとられたのであらう。
洗つて見れば君は意想外にちやんとしてゐた僕を認めるであらうし、亦、認めなくとも、そんなことで
腰のふらつく僕でないことを伝へて置きたい。正直にいへば僕は「康西省」の田中克己氏と第二段には
「蛙」の草野心平氏とを心に用意して出席した。開票の結果、佐藤一英氏に授賞されそれもよいと
考へたが、傍の萩原朔太郎氏に僕はすいせん詩人の名前を云ひ残念だつたと呟いたが、萩原氏は
草野心平氏にいれた旨をこたへた。これで僕は些かも専横とか横着者でないことがお解りと思ふ。

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※※長いので引用中断、要約すると
白秋の言っていることは全て間違っているということです。
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(引用再開)

君はふた言めには詩壇のためだといふが、本統に詩壇のためを思ふならああいふ公開状を
さらけ出して内輪のもめを世間に知らさないで、各委員と懇談して、聞くところを聞き云ふところを
云つた方が宜かつたのではないか、しかも君は相当の年配であり国民詩人としても立派な仕事をして
ゐられるのに、何の策動もなくまた賞金保管についても充分信用のできる僕をたうとう、
「横領者」にまで誤解されるのは、少し早計ではなかつたか、詩壇はいつまでも団結できずに
バラバラなのは君がぐずり出すことに始まる。君の公開状によつて詩人賞委員の諸君の心に
またもや厭気がさしはじめたのだ。さういふ厭気は君が内輪でいい話を公器にまで持ち出すからで
ある各委員が多忙中出席し凝議したことに礼もいはずにいきなり非礼不徳呼ばはりをするのは、
北原白秋といふ美しい名前をもつてゐながら甚だ残念なことではなからうか。君こそ各委員に
一応公開状の内容の不遜と傲慢とを陳謝すべきである。洗つても落ちない厭気は君が落さないかぎり
剝げない。その一事は詩人賞の前途に挫折を来たす恐れがある。君はただ一人でしかありえない、
ーーともあれ、この返事を好機とし各委員が集まり革めるところは改め、腹一杯云ひ合ひ喧嘩別れ
になつてもいいから将来の話をうまく纏めるやうにしたらどうだらう、その話がきまつてから
即刻僕は委員を辞めてもいい、引退がりなさいなどといふのはまだ早い、皆の前で僕を遣付けられる
なら僕の面の皮をひん剥いて堂々とやつて戴きたいのだ。
(中略)
そして僕が横領者であり不正漢であつたら即刻縄打つて突き出した方が君も清々するであらう。
若しさうでなかつたらどうする。人間の心にひとたびさう聞えたものを君はどうしてくれる。

ーーーーー「詩人賞禍なしー北原白秋に答ふー」室生犀星『改造』昭和十四年五月号(改造社、1939)
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(((ここで一息余談を)))

これが載っている『改造』には…
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ミヨシくんの例の薬の広告が…
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(((余談終わり)))

白秋は上記記事の後特に何も書き残していないし、
これだけだとそのまま喧嘩別れしたようにも見えてしまって、
その後で犀星の追悼詩や『我が愛する詩人の伝記』を読んだため、文面に漂う微妙な距離感といい
もやもやしたものを感じていました。
少し後で、犀星の昭和十八年発行『神国』に収録されている白秋追悼記「拝顔」を読んで
ようやくすっきりしたので全文引用致します。
と思って…
ひいひい入力し終わった後で知りました、
『神国』も近代デジタルライブラリーで見られることを…
>>>こちら

犀星の著作権は2013年に切れたので続々公開されていたのですね。
今年切れた三好達治はまだ少ないようです。

そしてせっかく入力したので載せておきます…

 ※茅原朔太郎=萩原朔太郎 加藤宗之助=佐藤惣之助です。
 小畠貞一は犀星の甥、白秋は名前そのままなのに何故萩原佐藤は変えてるのか…?

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  拝顔

 茅原朔太郎、加藤宗之助、小畠貞一の三人の親友を亡つた彼は、益々、その日その日の美しい
自然を見きはめるために、寸地の色も草も見遁さなかつた。酒を廃した彼は町に出る機会がなく、
曇ればどういふふうにその日は曇るかと、そんな日の蕭条たる枯草に見入つた。
 或日、茅原の弟さんの弥六君が来て、睡眠薬、小豆、鶏卵などを携へて彼にしばしば健康の
注意などをしてくれた上、北原白秋氏の病状が芳しからぬことを報らせ、明日にも見舞に上がらねば
ならぬと云つた。僕も行かねばならないが行き遅れて了つたと彼はこの春も、行く筈のみやげを先に
おくりながら逐々行けなかつた。
 一日間を置いて草木屋の山崎斌君に会ふと白秋が悪いさうだが、明日訪ねるつもりだと云つた。
その明日は彼も行く手筈であるのに二人一緒では、白秋君もお疲れになるだらうと暗然たる気持が
その夜ひとばん続いた。明けた十月(ママ)二日の午後だつた。「キタハラハクシウシス。」といふ
電報が、外からおそく戻つた夜の茶の間の明るい電燈の下にとどいてゐた。
「あ、白秋もとられた。」
 彼は人取魔でも見付けたやうにうめいた。
 駿河台の眼科医院に北原君を見舞つてから、もう五年経つてゐた。その間、北原君は自分で戦へる
だけ病気と戦ひ、出来るだけの療法の手を尽してゐた。細心至らざるなき夫人は殆ど寝るひまも惜しんで
北原君の肉体にはいり込んで、みとりされてゐた。だから五年も永い間持つたにちがひない、茅原の
急性肺炎も菊子夫人のやうな心の用意深い人がみとつてゐたら、むざむざと死の手に茅原を渡しは
しなかつたであらう。
 夏近い頃、茅原の全集の編纂委員の名義をかりるために、彼は北原氏を訪ねなければならなかつたが、
自分の山積した仕事に両友の遺稿をまとめるために、つい手紙でたのんだのであるが、北原君から元気な
返事が来てほつとしたくらゐだつた。「お手紙拝見しました。この度は衝撃を受け過ぎました。小生も
奇蹟の起らざるかぎり二人の後を追ふことになるだらうと存じます。貴兄にもおわるいとのこと何とぞ
お大切に願上ます。総倒れになつてはなりませぬ、茅原君の遺稿上梓につきいろいろ御配慮忝く存じました。
小生まで御照会いただきうれしく如何にてもよろしく願上ます。仰臥して、白秋。」
 仰向きになつて書いたものらしくペン書きも、みだれた字と字の続きがあつた。文面も率直玲瓏、
少しも気取つたところがなく思ふままにていねいに、心のゆくままに優しく書きつづつたところがあつた。
「小生まで御照会うれしく……」などといふ謙遜さは、そんな謙遜なぞといふことを考へなくてひとりでに
さう書いたところに、終生みることなき白秋を感じたのであつた。しかもこの手紙は手紙どほりに二人の
後を追つた人の、いまはのきはの優しい兄のやうな息づかひがあつた。そして此の手紙はやはり死ぬひとの
思ひが行間にただようてゐることも、否めなかつた。
 彼は二十一の歳に北原氏を訪ね、何ヶ月かの間を置いて三十年ばかり会つてゐたが、白秋氏を囲繞する
人がたくさんあるためにしぜんに遠慮するやうになつてゐた。何時か詩人懇話会のことで白秋氏の質問を
受け、間もなく諒解したときにも、北原氏は電報を打つて、「サイセイハワガトモナリ、スベテ リヤウカイス」
と云つてきてくれ、もう蟠りは二人の間になかつた。滅多に出しやばらない彼は出しやばると自分勝手に
ことをはこぶ、我ままがあつた。そのため北原君の怒りを買つたがそんなことも、もとの縒りをもどすには
少しも障碍にならないほどの、あいつには困る、しかしあいつもあいつの生き方があるから、がまんしてやれ
といふ美事な打つちやりが彼の上に仰がれた。金と小説でよごれてゐた彼をゆるしてくれたのも、彼の
がむしやらに拠るが、そこに文学をこころざすものの有難い理解があつた。茅原も加藤も、そして甥の小畠
なぞも彼の人目を蔽ふやうなはたらき振りをゆるしてくれてゐて、金にまみれてゐる彼をあいつは仕方がない
といふふうに、みとめてゐた。茅原は君の小説なぞ読まないといつも本当のことを云つてゐたが、手元にあれば
読んでゐてくれた。これらのよい友達のなかで彼だけはいつも、ゆるさざるをえない理由で、いつも大目に
ゆるされてゐた。
 
 彼が白秋邸に馳けつけ、白秋氏の顔の布を取つてくれる人がゐたので、彼はそれを拝んで今生の別れをつげた。
うす黄みをおびたへいぜいどほりの顔は、やすらかで昼寝をこころみてゐられる、さういふ穏かな顔つきであつた。
奇蹟の起らないかぎり二人の後を追ふであらうといはれた言葉は、そのまま彼にあたへられる最後のことばとして、
いま眼の前に永くねむりにつかれてゐた。いろいろ、やんちやんもいひ、ごぶさたも致しましたと彼はしばらく
手をあはせた。お釈迦様の寝顔はふとつてゐられたが白秋菩薩もふとつてゐるので、はなはだお釈迦様の顔に
似てゐた。
 告別式に山田耕筰氏の指揮で、大木君の追悼の詩が大勢の少女達によつて歌はれた。山田氏の友情がさうさせた
ものであらうが、しめやかで明るい哀しみがあつた。茅原や加藤の葬ひには式場の関係もあつたが、弔詞も悼詩も
読む者がゐず、袴のない葬ひであつたが、それはそれ、これはこれで宜かつた。一列にならび参詣者に礼をする
役目をしてゐたが、彼は茅原や加藤の姿を人と人との間に決して見はしなかつたものの、二人の友も驚いて馳け
つけてゐる想像がはたらいて来てならなかつた。

 日暮れ前、彼は自宅にもどつたが、北原君の死顔を見て名残りを惜しむことができ、死顔はしたしい間柄では
見て置くものだと思ひ、茅原や加藤の顔を見て置かなかつたことは、いま考へるとくやしかつた。加藤にたづねると、
加藤も茅原の死顔は見たくないと云つたが、その翌々日の夕方は死ななければならない加藤宗之助としては、なぜか、
見る気持のゆとりすらなかつたのであらう。人の死はそんなところにも妙にはたらいてゐるものかも知れないのだ。
「今年は詩人にとつていやな年だね。」と或る詩人がいつたが、三人もとられるといふことは、滅多にないことだつた。
しかも、この三人は血すぢの引いた詩の親友であることも、知る人はよく知つてゐた。打ちつれて極楽まゐる彼岸かな
とは彼の口をついて出た俳句であるが、加藤のいふ茅原の追悼俳句会ももう半年になるのに、肝心の宗之助の死によつて
いまだ催されずにあつた。恐らくそんな会合は彼がいひ出さないかぎり、もう催されることはないであらう。
そんな催しをするにはあまりに彼等のもろもろの死が、人びとの胸ふかく食ひ入つて、誰かをもう一人や二人を
誘はないかぎり抜け切らないものに思はれた。

ーーーーーー「拝顔」室生犀星『神國』(全国書房、1943)

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この、死に顔を見ないという話は同じく『神国』の、「行春」(朔太郎追悼)「電話」(惣之助追悼)を
受けての記述です。ご興味ありましたら上記ライブラリーへのリンクから読んでみてください。
また、同82コマ目以降の「神国」は、愛国戦争詩の奔流まっただ中で犀星がそれらをどう考えているかも述べられていて
こちらもおすすめ致します。ラジオでの朗読が決定的影響を与えたことがわかります。

全集でぱっと読める白秋側の言い分だけ見ると
全集未収録で読める機会の少ない犀星の反論はわからないし、
反論を読んだ所で止まるとうわ〜犀星と白秋大げんかしてる〜で、そのまま喧嘩別れしたような
印象を持ってしまうかもしれないけれど、こちらも未収録の「拝顔」を読むことで
両者すぐに和解していることがわかるわけで、
揉め事的なことをどちらかだけの記述、第三者の記述のみで判断するのは危険だなあと改めて思います。
しかし全てのチェックは不可能だし、それによって資料集めのドツボにはまるんですけども…。

白秋は大らかで人なつこい人柄の一方で結構な数の人と絶縁を繰り返す激情家でもあったようで、
熱い感情が涙を流さんばかりの厚い友情に振れる時もあるし、大激怒絶縁通達に振れる時もあり。
あちこちで衝突し多くの人を遠ざけながら、孤立せず最後まで多くの人に慕われてもいたあたり、
陽にせよ陰にせよ高エネルギーな方だったんだろうなあと思います。

ちなみに朔太郎氏は前橋訪問の際盃投げられて泣いてはいますけれど、
表立って白秋と衝突している様子は見られません。詩壇関係では反対の立場に立っていることも
多いんですが、「さんを付けろよ」事件に見られるように反抗しなかったからでしょうか。

ちなみに、三好・犀星両者が白秋と朔太郎は馬込で近くに住んでいる時もほとんど会っていなかったと
書いているのでそう思っていたら、白秋夫人菊子さんや与田準一氏の日記(北原隆太郎『父・白秋と私』(短歌新聞社、2006)より)
によると白秋が散歩のついでに朔太郎家に寄りビールを飲んだりといった交流はあったようです。

書いてあることが真実なわけじゃない、自分が読んだ範囲での判断が正しいわけじゃない。
という至極当たり前のことを、月吠を描いていると強く意識させられます。

全然明後日の方向にまとめてみました。
長〜い記事、ここまで詠んで下さった方、おつきあいいただきありがとうございます!
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