02.11
Tue
ご無沙汰になってしまいました。
2月11日は折口信夫(釈迢空)の誕生日。無関係な、まだ2p出ただけの釈先生も誕生日です。
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勿論あれで出番終わりということはありませんので!

さて、とはいえ釈先生はまだ2pしか出ていないので…
今日は5話の白さん(何故か白さんはさんも含めて名前な気がしてしまいます)に関して、
以前後回しにした、えたいの知れないこわさを感じると触れた点についてです。
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朔太郎の初期の詩はおそろしげで気持ち悪いべとべとした雰囲気をまとっていますが
はっきりした倫理観に貫かれていて、現代人の私からすると、その自我にまつわる悩みというのは
感覚としてわかるといいますか、なんというか安心して読めます。
白秋作品は倫理観がちょっと理解できない、
すっと無我になってしまう感覚が遠くてこわい感じがするのです。
その、現代人が喪ってしまった感覚にたじろぐといいますかちょっと後ろに下がってしまう。
それが魅力なんですけれども!

ここで注記しておきたいのは、白秋自身は非常に強い倫理観正義感の持ち主で、
(子供時代は色々やらかしたことは「思ひ出」にある通りですが)
動物にも優しく犬や猫を飼って可愛がっていたり鳥や虫をいじめる子を叱ったりもしています。
衝突や絶縁が多いのも激しい潔癖さゆえのようです。
月吠のキャラクターは作品を読んだイメージからできたキャラなのでこういうことになっていて
作者ご本人とは、その生み出したもの=深層心理の現れを読み手であるこちらが受け取って
ふくらませたという意味で関係はあるものの、その社会的人格とは無関係であることを
改めて強調させていただきたいです。

「こわさ」の話に戻りますと、
例えば『雀の生活』にこのようなくだりがあります、
::::::::::::::::::::::::::::
ある早春のほのぼのとした黎明方でした。ある土手の蒼々とした、大木の松の一番下の枝に、首くくりが一人、
まるで操り人形のやうにブラ下つて居りました。まだ少年でしたが、それは正しい瀟酒ないい姿勢でした。
制帽をかぶつて制服を着て、顔は白いハンケチでキリツと包んで、すらりと宙に下つた二本の脚のさきには
紅い韈が風が吹けば身体と一緒にふらりふうらり揺れてゐました。金釦がキラキラしてゐました。
静かなものでした。死んだ者とも思へぬその少年の死相は、全く天真な幼な童の無邪気に遊び事でもしてゐる
やうでした。清澄な空気の中に浮いて見えるから、猶更です。
見てゐると雀がその松ケ枝に留つてゐたのです。首をくくつた黒い細帯の結び目にも一羽留つてゐたのです、
頭を動かしたり、羽裏を掻いたり、羽ばたきしたり、それにちゅつちゅと啼いてゐたのです。
その枝の一番尖の一叢の青い松葉の中にも小さな雀が目を覚ましてゐました。松葉が揺れます、
小枝が揺れます、動きます。その松と土手との空間には、目を覚ましかけた市街が見え、橋梁が見え、
人馬が見え、工場が見え、煙突が見え、幾筋かのばい煙も彼方此方に立ち始めると、碧い空の円天井が、
次第に上つて来る朝日の放射で紅く紅く焼けて来ました、広重の空のやうに。何といふ平和な朝でしたか、
私はたまらなくなつて大きく息をつきました、涙が感謝と祈念とに輝きました。

ーー北原白秋『雀の生活』
::::::::::::::::::::::::::::
※ルビは省いています

長くなってしまいました。
この、制服姿の少年の縊死体の光景から「何といふ平和な朝でしたか」になってしまうのが、この感覚が、わからないでもないんだけども、なんだかこわい。
これがもし朔太郎が少年の縊死体を見つけていたらそりゃあもうらじうむが発光したり肉体がばらばらになったり忙しく、そして我々にもわかりやすく表現される気がします。
きっと朔太郎の目に雀は映らないし(不吉な烏のようには映るかもしれない)、
朝焼けの色も平和に紅くはならないでしょうから。いわば、一個人の死に重みがあるといいますか。
それが、白秋の世界観だと死体も自然情感の一要素になってしまう。素直に感謝と祈念に涙を流してしまう。
ああ美しいとぽーんと陶酔に浸れるところが、うーん、なんかすごく遠い。と、感じてしまうのです。
『桐の花』もそうなんですが…いわゆる姦通罪の、あの事件も白秋にとっては「懺悔」ではなく「哀傷」なんですよね。自己批判がなく自己陶酔がある、というとなんだかくさしてるような言い方になってしまいますが、その特質ゆえに白秋は生前から「思想がない」と批判されたわけですけれども
思想がなくたって素晴らしいものは素晴らしい、ここまで突き抜けた、丸裸の陶酔を投げ出してみせる白秋はやっぱりすごいと思うのです。

ぱっと読めるものでいうと青空文庫に「神童の死」が収録されているので、短いですし、読んでみていただけるとわかりやすいかもしれません。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000106/card47048.html
最後に「ああ、すばらしい事をやつてのけた。」という感覚…。
残虐さを肯定したり讃美したりしているわけじゃないんです、恐ろしいんです、幼子のように心底恐がりながら
美を見出し感激して涙を流してしまう、その繊細なのか無垢なのかなんなのか、えたいのしれない純真さがこわいんです。
残酷だぜ!暗黒だぜ!と露悪的なんじゃなくて(『邪宗門』にはその気配がありますが)、キラキラした涙目で純粋に美しいと感嘆しているこわさ…
てんでうまいこと言えませんが伝わるでしょうか…。

5話冒頭で歌われている童謡『金魚』については、残虐だ、教育用に不向きだという批判が寄せられたようです。
それに対して白秋は
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或る作家が、私の数百篇の中の一篇『金魚』を以つて、不用意にも単なる残虐視し、
而も私の他の童謡にも累を及ぼすまでに小我見を加へた。私は児童の残虐そのものを肯定するものではない。
然し児童の残虐性そのものはあり得る事である。而もその残虐たるや畢竟の残虐ではない。成長力の一変態である。
美であり詩であるのみである。ただに悪しとするは成人の不純なる道徳観念に外ならぬ。
ーー「童謡私観」北原白秋『緑の触覚』
::::::::::::::::::::::::::::
と反論しています。
白秋は結構、童謡についての考え方にはブレが見られるのですが、
「児童の残虐性は美であり詩であるのみ」という考えは一貫しているように思えます。
白秋は本当に日本の子供を愛していて児童教育にも熱心でしたが、
子供達の作る詩に対しても大人っぽく上手にしつらえられた「子供らしくない」ものは厳しく戒めています。
大人にとって都合の良い子供ではなく残虐性も含めた子供の本質を愛していたといいますか…それが今でも愛誦される童謡に繋がっているわけで、

しかしそんな白秋が戦時中は……以後はまた後日で!
なんだか全然うまいこと言えなかったのでいつかまたリベンジしたいです…

あと5話ではミヨシくんと朔の「氷島」をめぐる諍いについても触れたいです。
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