01.11
Sun
2015年元日をもちまして
三好達治氏作品がパブリックドメインとなりました。
今後三好氏の詩が紹介される機会が増えますよう願っております。

青空文庫では処女詩集『測量船』が公開されていますね。

今日は以前
>>>こちらの記事で
好きな詩に挙げた三作を紹介します。
何故か後期のものばかりですが…初期の詩も好きなのでまたおいおい。

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日まはり
日まはり
私の胸におくために
この勲章は上出来だ
私の生涯の終つた日に
友よ私の胸におけ
この黄金の大輪の
さも重たげな一輪を
花の言葉に聴き惚れて
つい人の世に夢を見て
夢からさめずにゆきすぎた
仕合せな
不仕合わせな
これはその男のための勲章だ
日まはり
日まはり

ーーー「日まはり」三好達治『花筐』

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落葉つきて 梢こずゑを透く陽ざし
冬の夕陽をしなやかにゆりあげる彼らの仲間
みなひと方にかたなびく欅の梢
ここの並木の瘤こぶの老樹の肩 胸 腰
腰かけほどにくねり上つたその根かた
さけてよぢれて傾いた変な窓から
この変てこなうつろからさへやつてくる
ついそのそこの刑務所の とりとめもない壁のかげ
監視櫓の八角塔 そのひと方の窓硝子の 赤い夕陽のしたたりから
今しがた身じまひのできたばかりの黄昏どきが
やつてくる
やつて来る一つの風景
風景こそは
いつもどこでも私にふさはしいものであつた
百年もながい間私はそれを眺めてゐた
さやかな ささやかな しづかな しなやかな梢こずゑを透く陽ざし
もろ手をあげてしなやかに冬の夕陽をゆりあげる彼らの仲間
さやうなら
こんばんは
遠い遠い過去の方から ぽつかり月が浮び出た
浮び出た追憶の
さうして この古い空洞(うろ)から出てゆくのは
さてもうあの世の新しい私でせうか

ーーー「落葉つきて」三好達治『百たびののち』

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百の別離
百たびの百の別離の 百たびを重ねたのちに
赤つさびた双手錨がごろりとここにねこんでゐる砂の上
こんな奴らのことだから 素つ裸さ
吹きつさらしの寒ざらしだ
それでもここの浜びさし 軒つぱには陽がさして
物置きだから誰もゐない
そこらの海はうす濁つて いづれ誰かの着ふるしさ よごれた波をうちあげる
忘れたじぶんにもう一ど 七つさがりの 袖たもと……
ああもう何の用もない古い記憶をうちあげる波うちぎは
俺はまたこんな世間のはづれまで何をたづねてきただらう
世界ぢゆうはここからはずつとむかふの遥かの方で
電波塔よりなほ高く煙火やなんぞ打上げてお祭気分でゐるらしい
それも昨日の をとと日の いい気なもんさ
三年前のふる新聞にもぎつしりの その出来事で今日もまた
ぎつしり詰めのマッチ箱 よくよくそれを積み重ね
流れ作業でかきまはし……
だからそこらの煙突は休まず煙を吐いてゐる
吐いてゐる
工場街はでこでこに積木の上にもう一つ 充実緊張傾きかかつたざまはない低姿勢だ
今日の夕陽の落ちかかる岬の鼻までせり出して
時には汽笛(ふえ)もふくだらう
こんなところにやつてきて俺の見るものは
踵(かがと)のきれたぼろ靴が二足半ほど
そいつも煙は吐いてゐる 古ぼろ船が艫(とも)をそろへて
痩せつこけたおふくろの あすこの桟橋の下つ腹にかじりついてる
ああいぢらしいそんな家畜にせつせとブラシをかけてゐる水夫たち
ポンポン・ルウジュの鼻唄まで
いちいち俺はていねいに眼がねでもつてのぞいてやつた
ーーたしか去年の春だつた
たしかにあれは夏のすゑ いやもうそれは秋だつた そんな日なみに
倉庫のかげから飛んでゆく 白くほほけたタンポポの 小さな綿毛の
ヘリコプターの飛んでゆくのを見たつけな
つかぬことまでもう一つ ここにきて俺は思出した
思出した つまりは もう一度それを忘れた きりもないこと
げにげに俺の見るものは ここらあたりの見渡しは
づつしり重い風景で そいつが俺を軽くする
ああ俺を 軽くする 重くする 重たくする
こいつに限るよ
どうだらう
夢のやうにも軽々と
づつしり重たく赤さびて ああ俺自身肱を張つて
遠い遠い別離のあと こんなところでねこんでる 砂の錨だ

ーーー「砂の錨」三好達治『百たびののち』

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それからこれも…。

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我ら戦争に敗れたあとに
一千万人の赤んぼが生れた

だから海はまつ青で
空はだからまつ青だ

見たまへ血のやうな
ぽつちりと赤い太陽

骨甕へ骨甕へ 骨甕へ
齢とつた二十世紀の半分は

何も彼もやり直しだと跛(びつこ)の蛼(こほろぎ)
葉の落ちつくした森の奥

まどかな丘のひとうねり
冬の畑の豆の花

歴史は何をしるしたか
雲が来てすべてをぬぐふ

まつ青な空
まつ青な海

飛行機はあそこに墜ち
軍艦はあそこに沈んだ

万葉集の歌のとなりに
砲弾の唸りをきくのは

まばらに伐られた林の奥に
それは何ものの影であらうか

けれどもまつ青な
空と海

我ら戦争に敗れたあとに
一千万人の赤んぼが生れた

ーーー「我ら戦争に敗れたあとに」三好達治『故郷の花拾遺』

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それからこちらも>>>以前とりあげた
「脱俗に徹した"息子”ー萩原朔太郎先生を懐ふー」が、
たぶん全集以外だと入手困難だと思うので紹介致します。

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萩原さんのことは、以前にもいく度か書かうとしたことがあり書いたこともあつた。
あの風貌人柄は私の書きとめておきたいと思ふものの、ーーさういふものの数少いうちの
最もだいじなものの一つであるが、いくらかでも得心のゆくやうに書きえたためしがない。
人間を写すことはむつかしい。あまつさへ、あの人柄はあまりに特異で、あまりに高雅で、
高雅な点でいつもおどおどしてゐるやうな風で、どこやら滑稽じみてゐて、時にはそれが
たいそう毅然として見えるやうな風でもあつて、無上に子供つぽく、その癖いつもしんから
デスペレートになげやりなやうな風にも見えた、ーー等々とにかくあの人とむき合つて
気軽な雑談を交へてゐる間にも、そんな場合の世間なみの普通な落ちつきを当方覚える
ことはまづなかつた。至つて内部的な人柄であつたし、そんな人柄の常として屢々トンマ
でもあつたし、鋭利に敏感でもあつたから、あれでは日常家庭内にあつても先生はいつも
孤独でゐるより外はあるまいと思はれるやうな具合であつた。
 先生は良家の育ちで、日常生活はそれでも時間的にはまづ規律正しくきちんと運行して
ゐるやうであつた。十一時頃には門扉は堅く閉つてゐた。いつぞや辻潤たちの一団が
その時刻をすぎて大声に萩原君萩原君としつこく門扉をたたいて呼ばつたが返事はなかつた。
 辻さんは例の無遠慮から、たいそうおせつかいな話と思はれるが、ーーもう室生君などと
つきあふのは君よしたらどうだい、あんなわからず屋と君が親友でゐたつてつまらないね。
友情の輸出超過といふものぢやないか云々、といふ筋の忠告を、たぶんは揶揄ひかげんに、
それも好意的にいつたといふ、そんな雑事を先生はその頃私にもらされた。さうして、
辻のいふのはもつともだよ、といつて笑はれた。けれども僕が、なぜ室生を愛してゐるかは、
辻にはわからないんだ、と語尾をかすかにしていはれた。愛してゐる、といふ言葉は
私のホンヤクではない、その時たしかにさういはれたのを忘れない。萩原さんは律儀な人柄で、
『虚妄の正義』のあの虚無的破壊的な思想は、あの人の思想のたしかな城廓ではあつたが、
さうしてあの人の全生活もおほかたそれに支配されてゐたが、そんな荒々しい突撃的な
やり方(ーー思想)のフルヒにかけた後の、フルヒ残されたかすかな、奇妙に閃光的なしかし
凡常な(ーー世間なみといふのとも一寸ちがふ)人情をだいじにしまつてゐられた。
 ノネといふのはシェパード崩れの猛犬であつたが、日頃いつかう眼にもかけないその飼犬が
姿をかくすと、一晩気になつて睡れなかつた、といふやうなことも話してゐられた。
 ノネと室生さんとを同日にいふのは失礼だが、中期以後の室生さんの作風制作態度が、
同人雑誌『感情』時代『抒情小曲集』時代からの引続きとはいつても、とつくに質的転換を
とげて、だいじな部分で重点がきり換へられてしまつてゐることに就ては、萩原さんの側
からはその時々の柔軟な理解はまづ乏しかつたやうな風であつた、ーー後年の室生は室生の
つけたしさ、といつた風に一からげに萩原さんには考へられてゐたやうな風に、ほとんど
ありありと明らかに傍らの私には看取された。かの旧友は、呼びもどさなければならない
ところの、雲隠れしたノネのやうなものに、萩原さんにとつては、いつまでも考へられてゐた。
まづそんな具合であつた。『感情』時代『抒情小曲集』時代の室生犀星は、たしかにその時代
比較的永かつた闇中模索時代の萩原朔太郎にだいじな詩的点火者として、彼の進路にヒントを
与へるところがあつた。私の推測では凡そ左様に考へられる。ことは偶然であり、図らずも
であつたけれども、それだけにことの意味は傍看者にとつてより萩原さんにとつて特殊で
あつたに違ひない。室生と僕とは、どちらがどう影響したか、相互に影響があつて、後には
こんがらがつて分らなくなつてしまつた、と萩原さんは当時をふりかへつて語つてもゐられたが、
それも間違ひでなささうなのとともに、両者に共通する当時の詩風ーーそれが『月に吠える』の
基盤となつたあの非論理性を含んだ詩風詩法は、萩原に於てよりも室生に於てより初発的気質的
自然発生的なものに、最もナイーブに受けとつて差しつかへなささうに考へられる。萩原さん
にもそのしんそこの感じあひはあつたに違ひない。室生は大哲学者だ、とそんな奇妙なことも
唐突にいつてゐられたが、どこが哲学者なのか正確には解しかねたが、不正確にはそれがよく
分るやうな何かの感じはあつた。嘗ては実態のあつたその何か、ーー遠い過去を萩原さんは
彼のものとして律儀にいつまでも腹中にしまつておかれたやうな風であつた。辻には分らない、
と声をひそめるやうにいはれたのは、そんな事柄ではなかつただらうか。ーー少しく私の推測が
過ぎたであらうか。
 いつかはまたこんなこともいはれた。君は白秋に会つたことがあるか、ないなら一度伴れて
いつてあげよう、ーーそれからつけ加へて、白秋は威張りたがるのでね、と妙なおつくうらしい
顔をされた。以前にかういふことがあつたと、めつたにさういふ打明け話をされることのなかつた
萩原さんが、その時こんな話をいくらかてれ臭さうに話されたのは私にはたいそう印象的であつた。
内容は次のやうであつた。
 ある会合で久しぶりに会つた白秋が、ちよいと萩原君と廊下へ呼び出すのに従つて外に出ると、
突然、君、君が僕を、北原君といふのは失礼ぢやないか、といふ詰問であつた。その前何かの
文章で、僕が白秋を「北原君」と呼んだ言葉使ひが気に入らないといふのであつた。さういはれて
僕は、不意を打たれて、戸惑つたが、考へてみた。「北原君」でもいいではないか。僕は白秋の
お弟子ぢゃないし、格別推挽をうけて世に出たわけでもないんだから。現に室生は、座談でも
いつでも、北原君北原君と気易げに呼んでゐるではないか。僕がある文章で「北原君」と書いたのが
失礼だらうか。窮屈な話だ。ーーさうは考へたが、考へてみると、白秋は先輩だし、仕事はあんなに
立派だし、僕も昔は白秋を愛読したし、そのお陰は蒙つたといつてもいいし、詩集に序文など
書いてもらつたこともあるんだから、どうもね、「北原君」などとは、いつてはいけないのかしら、
さういふものかとも考へた。廊下に呼び出されて、叱られるのは、不平だつたが、僕は、頭を下げて、
あやまつておいた、云々。
 僕は最初に、「北原さん」といつたので、損をしたよ、室生のやうに「北原君」といつておけば
よかつた、云々。
 私は別に白秋に面識を得たい希望はもたなかつたが、その後間もなく、萩原さんに伴はれて、
近くの緑ヶ丘に一度白秋邸を訪ねたことがあつた。何を話したかは記憶にない。白秋は格別威張り
かへつてはゐなかつたが、例の豁達な人柄を、見せかけの上で、いつそう鷹揚にふるまつてゐるらしい
風には見えた。レコードになつた自作の童謡を、いくつかかけて聞かせたりして、こちらは手持ち
無沙汰なのを、御当人御機嫌のやうに見えた。萩原さんのお宅では、粗忽者のノネが、玄関から、
次の間、奥座敷を泥足で駆けぬけて、一直線に裏庭に飛び出すといつた次第であつたが、北原邸
では、手放しの腕白小僧が窓口によぢ登つてわめき散らしてゐた外、室内室外、一応ハイカラに
派手に洋風に、きちんと整理がついてゐる様子であつた。
 私どもの時代には、白秋詩の魅力は、その一と昔以前に較べて、半減以下にも値下りをしてゐた
だらう。私自身も、実はその傾向圏内にゐたから、時たま談が白秋に及ぶと、渋つたらしく生意気な
口をききがちな傾向にあつた。萩原さんは、別段それを聞きとがめる風ではなかつたが、たいていは
微かに不機嫌な顔をされた。ある時は口をつぐんでしまはれた。またある時は、何かの言葉で
(その言葉は忘れてしまつたが)強く私の不謹慎をたしなめられるやうなこともあつた。
 文章用語の「北原君」はともかくとして、ーーそれから当時大森馬込村に萩原さんがゐられたじぶん、
ほど近い白秋邸に出向かれることなどほとんどなかつた交遊状態の疎遠の程度はともかくとして、
やはり萩原さんは、白秋に対してある内密な、親愛以上の敬愛、尊敬をいだきつづけてゐられたと
いつて間違ひない。それはずつと晩年までつづいて変らなかつた。『桐の花』以後の歌集などいつかう
つまらなげにいつてゐられたが、それらを詮議だてするほどの興味もなささうな態度であつたけれども、
先の白秋観はあの人の内部で依然として消え失せた遠い過去の実態を失はなかつた。後の白秋は白秋
のつけたしさ、無用の蛇足さ、といつた底の見地は対室生の場合とほぼ同様であつただらう。
さういへば、萩原さんにはその種の変化がなかつた、それも確かなことであつた。
「萩原といふ男は、俗気のゾの字もない奴だから」とある時日夏耿之介先生がいはれた。日夏さんの
極めなら太鼓判といつていいだらう。「萩原さんに会つてゐると一家の主人といふ感じはしないね、
いつまでも息子だ、あの人は」と堀辰雄君が穿つたことをいつた。その通りであつた。萩原さんは
良家の出で、生計の苦労といふものをあるほんの短い期間をのぞいて(これも私の推測)生涯知ら
なかつた。させたくない人にそんな苦労をさせなくて済んだのはまことに偶然の幸運だつた。
先生がそれを幸運と考へてゐられたかどうか、多く念頭になかつただらうと思はれる。「朔太郎は
うちの財産をふやしもしませんでしたが、へらしもしませんでした」と先生の没後老母堂は語つて
ゐられた。先生は家厳の逝去後家督を継いでゐられたのだから、萩原さんならだらしなく家産を
蕩尽してしまひさうにも一寸考へられるのだが、さうでもなかつた。新宿あたりの場末のつまらぬ
酒場を毎晩のやうにほつつき歩いてゐられたのは、あの人としてはのつぴきならぬ思想の持てあまさ
れた到着点であつて、その外の何ものでもなかつた。好事の人は読んでごらんなさい、散文詩
「虚無の歌」はその最晩年の心境を語つてあますところがない。

ーーーーー「脱俗に徹した"息子”ー萩原朔太郎先生を懐ふー」『三好達治全集 第五巻』筑摩書房、1964


「虚無の歌」は以前紹介した「蟲」と同じ『宿命』に収録されています。
01.10
Sat
今年最初のノートです。今年もよろしくお願い申し上げます。
年賀状やお手紙を送ってくださった方、受け取りました、ありがとうございます!

さて、
>>>>去年の記事でも触れましたが

大正4年(1915年)1月9日、白秋が前橋の朔太郎を訪ねて一週間滞在しました。
150110.png

上記記事で引用している続きの部分です。

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その前橋では一夜牡丹雪が降つた。
さうして赤城をはじめ妙義、浅間、榛名、相馬の連山が雪で真白くなつた。
山は皆鋭角をなしてゐる。その中に白い浅間の天辺から白い煙が麗らかにのぼる。
空をゆく雲は正覚坊となり卵を落す。何ともいへない眺めである。
それが忘れられないで、東京へ帰つてから、前橋の「侏儒」の人たちに
絵を描いて送つた、而して私自身には麗空といふ詩を作つた。

ーー「地上巡礼 編輯室夜話」『白秋全集 37』岩波書店、1988
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ここにある、そのときに作られた麗空という詩を紹介します。

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麗らかな、麗らかな、
何とも彼ともいへぬほど麗らかな、
実に実に麗らかな。
瑠璃晴天の空の上。

はるかの下界に雪の連峰。
山はみな鋭角、
白い波を打ち、ますます高く、
真白に光る、その間から
ひとすぢ煙を吐く山もあり。
その煙までが音たてず。

麗らかな、麗らかな、
何ともかともいへぬ麗らかな、
雲がふはりと空に居る。
実に実にうららかな。
見れば見る程うららかな。

正覚坊が空に居る。
大きな大きなその亀が、
麗らかに匍うてゆくのが眼に眩し。
雪の山をのぼり越して
照り光るまんまるい日輪光にさしかかる、
ゆつたりと正覚坊。

麗らかな、麗らかな、
何ともかともいへぬほど、麗らかな、
実に実に麗らかな、
るりいろの虚空から、その亀が
ぽたりぽつたり卵を落し、
何処へゆくのかもわからず、
また乗り越してゆく日輪を。

泣くに泣かれぬ天景に
正覚坊はいつまでも、いつまでも、
まるい卵をぽたりぽつたり。
日輪は金になつたり、白くなり。

麗らかな、麗らかな、
何ともかともいへぬ麗らかな、
実に実にうららかな、
昼の幽霊、正覚坊の尻の穴。


ーー麗日異抄「麗空」『第二白金之独楽』(『白秋全集 3』岩波書店、1985)
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